留学してた。
- 4月27日
- 読了時間: 6分
更新日:5月17日
日本で「留学してた。」と言うと、お金持ち!みたいなイメージがある。
ような気がする。
私は一応日本の大学も受験した。
今考えても無謀すぎるけど、国公立芸術大学の一つ愛知県芸の日本画科を受験した。
そして、すぐ(一次で)落ちた。
石膏デッサンの課題モチーフは一番嫌いな”ジョルジョ”だった。
ますますジョルジョが嫌いになった。笑

ジョルジョ君
在学していた島根県にある全寮制普通科の高校ではそれぞれが自分の進路について自分で考え、選択し、そのために必要な勉強や準備を各自がしていた。
和歌山の田舎の中学校では成績はいい方だった気がするけど、この小さな高校では私はごくごくフツーだったと思う。(たぶん)
このちいさな高校、なぜか秀才が多かった。
国公立大学を受験する人も一定数いて、島根県のセンター試験会場となっていた松江まで国公立を受けるメンバーで一緒に電車に乗って受けに行った記憶がある。確か雪が降っていた。
美術大学は本試験は実技試験で、私が美大受験のためにしたことは、放課後や土日に、高校の敷地内にあった“美術小屋”という名の小屋の中で実家から送ってもらったマティスの石膏デッサンやら、油絵やらを何枚か描いたこと、と、高3の夏休みに東京の予備校”すいどーばた”で10日間くらい夏期講習を受けたこと、と、冬休みに名古屋の河合塾の愛知県芸日本画受験コース冬期講習を1週間くらい受けたこと。
東京も名古屋も親の友達のお家に居候させていただいてそこから通った。
東京のすいどーばた美術学院は倍率40倍だとかいう東京藝大油画科をめざす人たちもたくさんいて、まあなんというか、学生の気迫がものすごかった。
浪人生もたくさんいたし、ファッションから髪型からなにからぶっ飛んでるひといっぱいいたし、みんな天才肌の”アーティスト”って感じだしアトリエも校舎内も油絵の具やら何やらの匂いが充満してて、予備校だけども美術大学のような雰囲気も満々で、なんというか、私は、ものすごく場違いなところに来たような気がして、ちぢこまっていた。
石膏像の木炭デッサン、裸婦デッサン、いろいろやったな。
あと、いきなりでっかい氷の塊がリヤカーみたいなのでアトリエに運び込まれてきて、真ん中にどーんとおかれて、この氷から自由に発想して作品を描きなさい、みたいな課題とかもあった。
私は目が点になって、なんで氷?みたいな感じで途方にくれたのだけども、他の人たちはすごい勢いでアトリエの中に自分の制作スペースを確保し、キャンバスやら準備し始めて、大きいサイズにどんどん描き始めていて、私はなんだかもうどんどんわけがわからなくなっていったのを覚えている。
とにかく必死でなにか描いたけど、氷→光→色か?みたいな感じで半ばやけくそで連想して考えて、色の集合体みたいな自分でも何を描いているのかよくわからない絵を描いた気がする。
温泉につかる猿の絵を2畳くらいのどでかいキャンバスに描いている人がいて、
講評のときに氷と猿の関係を講師にきかれて、ものすごく真面目に猿のことやらを力説していたことはなぜかよく覚えている。
そのひとは東京藝大の油画科めざして4浪していた。4浪!!?、、、衝撃だった。
猿の絵は超絶うまかった。
あのひとははたしてその後無事に東京芸大油画科に合格したのだろうか。
何人かの講師の方がいて、ほぼみなさん藝大卒とか現役の藝大院生で、超絶頭も良さそうだし絵も上手いしなんだかクールでかっこよかった。
作品の講評のときかなにかの話のなかでひとりの講師の方が、
フェルトと蜜蝋を使って作品をつくる芸術家のことをとても熱く語っていたのが印象に残っていて、
その何年か後に入学したドイツの大学でヨーゼフ・ボイスについての授業があって、その時に、ああ、あれはJoseph Beuysのことだったんだと、そのすいどーばたの講師の方の話をふと思い出して私の中でいろんな記憶がつながったのだけど、なんであの時、すいどーばたのあの先生はボイスの話をしたのだろう。

名古屋の河合塾の日本画科志望コース冬季講習のことは正直あまりおぼえていない。
油画科志望コースとはまったくちがう雰囲気だった気がする。
まぁそんなこんなでセンター試験というものも経験して、とにかく受けてみようと唯一受けた愛知県芸日本画科に落ちて、さあ、私どうしようとなった時に、是が非でも行きたいという大学があるわけでもないのに浪人して受験のために予備校にお金払って通う理由もモチベーションもみいだせなくて、そして、夏期講習などのときの雰囲気を経験してみて、私は美術大学のあの雰囲気、無理かも、、と思ってもいた。
美大生、芸大生ってのはすごい才能と個性と湧き出るエネルギーをもちあわせているのだなということを痛感したし、あの温泉につかる猿の絵を描いた人の集中力はすごかったし、平凡な私にはその才能もあのエネルギーもないな、と思った。
そして、
色々とひかれるものがあったドイツにいこうかな、と思うようになって、まあそれなりの色々のプロセスがあって、ドイツに行った。
ドイツの大学の学費は安いらしい、というのも実は私の中では結構大きい理由だった。
まぁそういう感じの流れだった。
ドイツで大学に入るまでの経緯はまた別の機会に書こうと思うけど、大学は向こうに行ってから決めた。そんなアバウトさでよくもまぁ大学卒業できたよな、とは今になって思う。
私が卒業した私立大学は学費は当時月2万しないくらいだった。まだドイツマルクの時代。ちなみに国立大学は当時は学費がタダ。(今もほぼタダのはず)。
とにかくドイツは学生にはとても寛容で学生が優遇される国だった。学生証があれば映画館も美術館も鉄道もあらゆるものが安かった。
シェアハウスのちっちゃい部屋の家賃も2万しなかったし、粗大ゴミでひろった家具や他の学生からの流れものの生活用品でほぼ生活できたし、他の学生もみんなそんな感じで生きてたので、大学の4年間はそれはそれはいろんなアルバイトをしまくって、結構どうにかなっていた。
毎週、美術史の講義のために、普段は別の場所にあるキャンパスやアトリエには散らばってる全学科の学生が本校舎に集まる日があって、毎週その日にはシリアルクッキーを大量に作って一つ50セントで売って、数ヶ月で日本帰国一回分の飛行機代を稼いだりもした。
そんな感じで、私は「留学してた。」けど、費用としては日本の国公立の大学に行くよりも断然安くすんだはず。
色んな「留学してた。」があるという話。
まあでも、飛行機代とか、ドイツ語ができないはじめの1年の向こうでの生活費とか、それなりのお金は必要だったわけで、あの頃の親のやりくりは大変だったと思う。今も大変そうだけど笑。
そして、
とにかく私は本当にたくさんの方に助けてもらった。
たくさんのひとに、助けてくださいって言いまくって、たよりまくった。知り合いの知り合いはみな知り合いだと思っていた。
人間、みんないい人だと確信していた。
そんなお気楽マインドも親から受け継いだものな気がするし、いろんな人のつながりは元を辿れば色んなところに色んな知り合いがいる親がつないでくれたご縁でもあったわけで、そのご縁のご縁であったわけで、親にはやっぱりとても感謝している。
色んな場面で助けていただいた皆様、その節は本当にありがとうございました。



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