母国語は、日本語。
- 8月4日
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カルマというものがあるのであれば、私はドイツという国にも因縁があったようで、19でドイツにいって、それなりにドイツ語がわかるようにもなり、ドイツ人と暮らすことになり、そしてドイツ人と一緒に日本でも暮らすことになり、そのうちドイツ人も日本語を話すようになって、子どもがうまれて、子の母国語は、日本語。
子が小さい時に公園とか行くと、みかけが”ハーフ”なのでハロー!と他の子に話しかけられることもあったけど、子はいつもきょとんとしていた。
そもそも私は多言語教育とかには興味がなくて、そしてドイツ人夫も子が新生児の頃から日本語だけで話しかけていた。彼曰く、日本では空気が日本語だから日本語で話しかけるのが自然、とのこと。そういう夫の感性には私は感謝している。
多言語教育どころか、就学前に読み書きを教えることの必要性も感じてなかったので、そして子は近所の公立保育所に通っていたので、特に”お勉強”などもなく、小学校に入学するまで自分の名前すら書いたことも読んだこともなかった。
けれど、小学校に入学すると、いつのまにか文字を習得し本が読めるようになり、漢字まで書けるようになるわけで、学校ってすごいな、と思う。
言語というのは不思議なもので、その言語の空気というか、言語の世界というか、そういうものがあって、それはその言語を話す人に多大な作用がある。
どんな言語を話すかで、思考回路とか感覚とか発想とかイメージするものがイメージする世界が変わってくる。
ということを、母国語以外の言語を話す土地で、その土地の言語をそれなりに習得しその土地で生活するということを経験してみて、とても思う。
ドイツ語を話している時の私と日本語を話している時の私、両者のそれぞれの発想やイメージやつながる思考やらは微妙になにかが違う。体感として何かが違う。
どちらも私というひとりの人間なんだけども。
たぶんこれが言語にやどる、民族の風土や言語の何かの作用なんだろなと思う。民族魂?
世界には本当にたくさんの言葉があるわけで、それぞれの言葉に宿る何かがそれぞれにある。今は翻訳アプリがあって本当に便利になったと思うし、ドラえもんの道具レベルですごいことが可能になっているなとつくづく思う。
ただ、この言葉に宿る何かというのは、AIには訳せない、ような気がする。
もちろんどの言葉にも通づる言葉を超えた普遍的なものはあるのだけども。
日本語という言語は、身についていると良い作用がある言語。と私は勝手に思っている。
どう良いのかというのをうまく説明はできないのだけども。
こんなことを言うと、それはナショナリズムだ!という誤解も生じそうだけど。
でも、そう思う。
子の母国語が日本語でよかったと私は思っている。
(こんなことは夫には言えないけど)
あと、母国語が日本語でよかったと思うもうひとつの理由は、宮沢賢治。
賢治の童話や詩の英訳もドイツ語訳もあるのだろうけど、そしてそれもとてもいいものなのだろうけど、
子が宮沢賢治を日本語で読めてよかった、と私は思っている。




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