週末は雨が降っていて、
ここ大阪は非常事態宣言うんぬんの市内放送みたいなのも時々なってるし、
うっかりすると、なんというかこりゃ気は滅入るわな、と思った。
スリッパと100均の柔らかめのピンポン球で子どもと家の中で卓球したり、洗濯物をどうにかしたり、着る服、もう着ない服をわけたり、家族で、録画してた吉本新喜劇を2本続けてみて大笑いしたり、探し物をしたり、であっという間に日は暮れる。
私は家が好きで家にいることは苦ではないし、したいこと、なさねばならぬことがとめどなくあるので退屈とかいう時間は全くないのだけれども、
私がしたいあれやこれやは自分のペースで自分の世界に集中してはじめてできることで、それは家族がずっと家にいるこの状況ではなかなかできないわけで‥。
でも、ほんとは周りの状況は言い訳にすぎなくて、周りの状況がどうであろうと自分に集中する環境は自ずと創れるのだろうなともおもう。ほんとは。
話は変わるけど、我が家は最近なんとなく吉本新喜劇に救われている気がする。(笑)
一昔前までのは、下品さとかやたらと叩くのとかひとを悪くいう言い方とかが気分が悪くなるくらいのもあってあんまり好きではなかったけども、最近のはだいぶそういうのは減っている感じがする。
世渡りがへたくそそうな人でもなんとかなるとか、正直者が馬鹿を見るこの世の悲しみを笑いに変える感じとか、「いいよ〜〜」ってゆるしてくれるのとか、借金がちゃらになるのとか、なんかほっとする。
現実社会はもっとシビアなのはわかってるけども、
人生そんな単純ではないのも100もしょーちだけども、
なんか色々むずかしく考えてごちゃごちゃ考えすぎて、あーだこーだ言ってるこの世の中のしんどさがあほらしくなる瞬間がある。
それぞれの人のもつ個性こそをみつけ、それを輝かせることに気持ちをむければ、みんないい感じに支え合い補い合い、人生色々あるけど、なんかそれぞれ何とかうまいこといくんちゃうの?とふと思ったりする。
あと、嘘がバレバレなのもなんかいい。
まあ、芸人さんたちの私生活はしらんけど。
今日本では、コロナにかかって困っているひとよりも、お金のことで困ってる人のほうがはるかに多いんじゃあないだろか。
来週、来月これくらい入ってくるだろう、っていう前提のうえで真面目に普通に日々生活してたひとがたくさんいるわけで、今、それが入ってこないかもしれないということに直面してるひとがたくさんいる。
イオンモールや百貨店のトイレの掃除をしてくれてたおばちゃんたち、大丈夫かなって本気で思う。
そりゃあみんなが、ピンチはチャンスと機転をきかして、新しい何かを始めたり、
ちゃっちゃと行政に申請して、もらえるお金をもらって、次への展開につなげたりができたらいい。それに越したことはない。
でも、助けを求めるのが下手だったり、変にプライド高かったり、人様に迷惑をかけたらあかんと思って頑張ってたり、世渡りへただったり、なんとかせなあかんと考えるけど、すぐに頭がフリーズしたり、10分でできることに3日くらいかかる人とか、ひとりで思い詰めて周りから見たら「なんでそうなるん!?」っていう展開になってしまうひととか世の中には本当にいろんなひとがいる。
はやくこの”非常事態”がおさまってもとの日常にもどってほしいと思っている人はたくさんいるだろう。日常が一変して、今まで普通にできていたことのありがたみを感じる、ということもたくさんあると思う。
けれども、
もとの生活”そのまんま”に戻ってほしいと願う人はどれくらいいるのだろう。
それなりにいろんなことがうまくいっていた人はもちろん元に戻りたいと思ってるだろうけれども、”そのまんま”かどうかはどうだろう。
そして、もとの生活というものが、とてつもなく辛く悲しくしんどいものであったひとも少なからずいるのではないだろうか。
そんなことを思ったりもする。
元の生活も、そして今現在も、ひとりぼっちで思い詰めているひとたちが、どうかどうにか救われますように。そのことをただただ願う日々。
コロナがこの世に現れる前の世界は、果たして良きものだったのだろうか、と考える。
誰もが幸せに、心豊かに暮らせる平和な世界だっただろうか、と考える。
今現在、困っている人はいないだろうかと考える。
そして、自分はどんな世界を願うのか、ということを考える。
文明社会はコロナに翻弄されているけれども、視点をひとつおおきくしてみると違った何かが見えてくる気がする。
大阪の空は今までになく澄み渡っている。新緑も草木も美しい。
いつも何となくほこりがかかっていたヨモギの新芽も今年のはとても綺麗で、天ぷらにしたら美味しかった。
世間はなんとなく静かなので朝から鳥の声がよくきこえて、
夜は池でカジカガエルがコロコロといい声で歌っている。
自然は元気、そして生き生きと美しい、今年の春。
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