大阪で暮らし始めて、冬に薪ストーブがないということが冬の生活の中でのけっこうしんどいことだった。なので薪ストーブを設置した。設置してから多分もう6、7年くらいたつ。
ストーブはインターネットで探して買った。29800円だった気がする。
ホームセンターで煙突を買ってきて、夫が窓枠と同じ大きさの木型をつくってコンクリートを流し入れて煙突の穴を開けたものを作って窓の代わりに取り付けて煙突を通し、家の中はセメントレンガを積んで囲いを作ったりして設置した。
一応住宅地だし、近所にも気を使うし昼間は焚かないようにはしていて、夕方日が暮れてから点火する。ほんとは昼間も焚きたいけどもそこは我慢。
薪ストーブがあるというだけで、冬という季節が心豊かなものになる。
薪をどうしようかと設置する前はちょっと心配もしたけども、使い始めてわかったのだけども町中というのはちょっと探せば実は薪がたくさんある。
写真を撮るためにカメラをもってそこらへんをうろうろしていた夫が、けっこう大きめの公園の片隅に木を選定・伐採したのが山盛りに積んであるのをみつけてきて宝物をみつけたように電話をかけてきた。私は市役所に電話して担当部署を探し当て、公園の場所を説明してあの木をもらってもいいかときくと、市の担当のひともどうぞどうぞという感じ。さっそく車で何往復もして大量の木をもらってきた。市にとっては樹木もゴミあつかいなので、近々ゴミ焼却所に持っていく予定だったらしい。焼却所では石油かけて燃やすのだろうと思うと、頭の中がこんがらがる。
そして、ここ何年かは、うちで薪ストーブを使っていると知った近所の造園業を営んでる方が、大きめの木を剪定する時に木いりますか?と声をかけてくれるという幸運。
お寺を解体した古材を持ってきてくださったこともあって、それは目の詰まったヒノキ のりっぱな梁や柱やらで、彫刻を施したような部位もあったりするようなもので、そしてお線香の香りが木に染み込んでいて、しばらくは庭にはお寺のようなよい香りがただよっていた。
りっぱな柱はツリーハウスの柱になった。
昨年は、切って欲しいと頼まれたという紅葉樹の大木何本かを伐採したものをトラックに積んでうちの庭に運んでくださった。造園やさんも、大きな木を切るというのは辛いですっていうてはった。今、庭には大きな丸太の山ができあがり、それはもうこの先何冬も薪は大丈夫そうなくらいの量で、そしてちょっとしたアスレチックにもなっている。ほんとうに色々はありがたい。
そんなわけでこの冬も毎晩、薪ストーブの炎をぼーっとみつめているうちに時間がすぎていくという感じなのだけれども、つくづく思うのは、木ってすごいなということ。
生えてるときは、根っこをはって土を保ち、いい具合に木陰をつくって、花を咲かせたり実をならせたり、そして落ち葉は微生物の住処で土壌を豊かにする。
雨風から生き物をまもったり、そして空気を浄化したり、子どもを登らせたり、ツリーハウスなんかをささえたり、もうありとあらゆる働きを文句も言わずもくもくと担っている。
そして伐採されたらされたで、今度は人間が家を建てる材料になる。
船にもなる。机にも椅子にもなるし、棚にもまな板にもスプーンにもお椀にもお箸にもなる。
それでその役目が終わったら、今度は燃えて人間を温める。どこまで一途に人間に寄り添う一生なんやと思う。そんな一生を文句も言わず淡々と全うしている。なんなら、燃えた後の灰は畑の養分になる。
もうなんというか、ありがたいを通り越してすごいとしかいいようがない。
そんなことを、夕方にストーブに火を入れながら考えるから、晩ご飯にとりかかるのがおそくなる。
で、書きたかったことはねずみの焚火のこと。
子どもの頃から大好きで何冊か持っている、いわむらかずおさんの”14ひきシリーズ”。自分に子どもが生まれてからも持ってなかった「14ひきのせんたく」とか何冊かを買ったのだけども、そのなかの「14ひきのもちつき」を子どもと読みながらふと気づいたことがあった。
ねずみの家族が餅米を蒸す場面があって、ねずみサイズの土間のすてきな台所でねずみのお母さんおばあちゃんがねずみサイズのざるで餅米を洗って、そしてせいろで餅米を蒸していくのだけども、机やら道具やらはねずみサイズに描けても、ネズミの世界でもお米はお米サイズのままなのだということ、小さくは描けないのだということ。
たぶん作者のいわむらかずおさんもそのことにはお気づきで、せいろの中のもち米は米粒の形をそこまではっきり描くのではなくて、何となく人といもの比率みたいな大きさに描かれている感じ。
そして、次に私があ、っと思ったのは、餅米を蒸している薪の大きさなのだった。
餅米の入ったせいろが窯の上におかれて、窯にはねずみサイズの薪がくべられて火が燃えているのだけれども、この薪もねずみサイズだということは、太めの割り箸くらいなわけで、ということはこの薪はけっこうすぐに燃えつきてしまうんじゃないだろか、、、、ということ。ということは餅米がちゃんと蒸しあがるまでにねずみたちは次から次と薪をくべなくちゃならないということで、それってめちゃくちゃ大変やな、、、と。
薪が燃える時間と餅米が蒸しあがるためにかかる時間は、ねずみサイズにはならない。
ということは、木の薪が燃える時間と、餅米を蒸す火加減や蒸しあがる時間というのは、人の時間の感覚と、ものすごく絶妙にマッチしているということなのではないだろか。
幼かった子どもに絵本を読みながら、ふとそんなことを思って、何だかとてもおどろいて、でもそのおどろきを幼い子どもと共有することもできないし、そしてあの頃は今ほどは日本語堪能ではなかったドイツ人にドイツ語で説明するのも色々とめんどくさいしで、結局だれとも共有できないまま、でもなんだか深く感動したことを、薪ストーブの火を見るたびに思い出すのだった。
人間の餅つき。
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