顔。


島根の高校で出会った友が、私の絵を欲しいといってくれた。

赤いほっぺの作品。

ほんとは春先に彼女の新しいお家に同窓生何人かでひさびさに集まろうとなっていて、その時に絵も届けようと思っていたのだけれども、前日に子どもが熱を出して行けなくなったので郵送した。

オーダーメイドのヒノキ のフレームに額装して。

お家の壁にすっきりと納まったようでよかった。


絵の話(解説?)もききたいといってくれて、じゃあちょっと文章でも書いて絵と一緒に送ろうかなとも思ったのだけど、私は文章をかくのも時間がかかって仕方がないので、その時は絵だけ送って、絵の話はまた手紙で送るねとか言っておきながら、またそれからけっこうな時間がすぎてしまった‥。

そして”絵の話”というのはとても難しい‥。

それでなんとなく思い出した美術大学の授業のことを書いてみようと思った。

このブログに書いてみる。




私がはじめて”顔”というものに興味をもったのは2年生の時の”Portrait”の授業。

Portraitはカタカナでは”ポートレート”で、日本語では”肖像画”となるのかな。

その授業の担当教授はアンドレアス先生。

細身で、身なりと持ち物はいつも細部までこだわり抜いたものを身につけていて、すべてにおいてきちっとしていて、すきがなく几帳面な先生。ピンクで絵を描き作品をつくる人。

絵画科のメイン教授はこのアンドレアスと「色々とフリーダム」に書いたウベだった。個性派コンビ。


アンドレアスはその頃、アフリカに”ぞっこん”で、スーダン に行ってアートプロジェクトをしたり、セネガルに行ったりとにかく”アフリカラブ”が炸裂していてすごかった。

もともと早口でたくさん喋る先生なのだけど、アフリカのことを語るときはもっと早口で、アフリカの素晴らしさを語り出したら止まらなくて、もうアフリカにメロメロだった。

アンドレアスは男性を好きになる男性で、あの時もしかしたらアフリカに恋人がいたのかもしれないな。

アフリカに行って大学に数ヶ月いないこともあったりアフリカのアーティストとつながったり、まあ、そんなアフリカラブ炸裂の彼の尽力もあり、大学がスーダンの美術大学と姉妹校提携をむすぶことにまでなったのだった。

 まずはドイツから希望する学生がスーダンにいくことになって、絵画科の学生何人かが1ヶ月ほどスーダンに行った。そして、その数ヶ月後に今度はスーダン から20人ほどの学生が交換留学という形で数週間こちらの大学にやってくることになったのだった。

スーダン は長く続く内戦の停戦状態のような感じで、国としての状況は色々と大変で、ビザのこととか彼らの旅費のためのお金を工面したりとかハードルは多々あっただろうけど、色々はアンドレアスの”アフリカラブ”の情熱があってこそ実現したのだろう。


色々は17年ほども前のことなのでうろ覚えのことばかりだけれども、

大学の中庭に20人ほどのスーダンの学生とアンドレアスが現れた情景は覚えている。

交換留学ときいていたけど、みなさんなんだか学生という感じではなくて、着の身着のまままやってきました感も満載で、アフリカからの団体旅行のグループって感じで、そしてそのうち女性は2人だけで、ほぼ男性。

スーダンの人の多くはイスラム教徒で、女性はスカーフをかぶっていた。


そのアフリカ大陸からやってきたひとたちが大学に滞在する期間に合わせて”portrait"ポートレート:”人の顔”をテーマとした絵画の授業が行われたのだった。

色んな人種の、様々な肌の色の学生たちが集う時にこそ、このテーマでの授業をしよう、というアンドレアスの思いがあったのだと思う。

授業初日はアトリエにはスーダンの学生たちと大学の学生があつまって、いつもとは違う雰囲気。スーダンの人たちは緊張した面持ちで、みんな静かに話をきいていた。

”人の顔というものについて”のアンドレアスの哲学的、芸術的考察の長い話があって、その時はアンドレアスは英語で授業をしていて英語でもやっぱり早口だな‥と思った、ということは記憶にある。話の内容はおぼえていないけれども、

顔のなかにはさまざまな円が見出せる、ということを実際にドローイングしてみせてくれたことはおぼえている。


そのあと学生がふたりペアになって、お互いの顔をスケッチすることになった。

私は髭の生えた毛糸の帽子をかぶったスーダン人のひととペアで描くことになった。

30代かなという感じで大学生というよりも、若いおじさんという感じのひと。

黒のパステルでスケッチしたのだけれども、黒色人種の人を描くのは初めてでとても新鮮だった。顔の明暗をとらえるのがものすごく難しかったのを覚えている。

そしてそのペアでお互いの顔を描くことを毎日続ける、という課題がだされてその日は解散。

もちろん次の日も朝の授業開始の時間にアトリエに皆集まることになっていた。

 次の朝、アトリエに行くと、なぜかスーダンの人たちは初日の半分以下の人数しかいなかった。私のペアの人は時間通りに来ていた。その日は。二日目にしてペアの相手がいないドイツの学生もいたわけで。そして、次の日は午前の授業に来るスーダン人はもっと少なくなっていた。確か私のペアの人もいなかったような‥。

なので私はペルー人の友達の顔を描くことにした気がする。

スーダンの学生は彫刻科など他の学部にも分散して授業に参加していたのだけれども、どの学科の学生も授業にほとんど来なくなり、なんでこないんだと他の学部の先生たちもちょっと憤慨気味ではあった。


なんで彼らが授業に来なったかというと、なんと、彼らがドイツにきた始めの何日かは、ちょうどイスラム教のラマダンの最後の数日と重なっていたから、ということなのだった。ラマダンの期間は日が出ている間は食べ物を口にしてはいけないらしくて、なので日中はあまり活動的ではなく日没後にみんなであつまって食事して楽しんで夜中にお祭り騒ぎをするらしくて、要は昼夜が逆転してしまう期間らしいのだった。断食の期間なのに皆太るらしい‥。

ドイツであろうがどこであろうが彼らはラマダンの慣習にそった生活を送っていて、スーダンの学生の1日は日没後始まる感じなので、そしてその時は特に旅行気分ということもあり、さらに夜中にわいわいみなで楽しんで、街に繰り出したひともいて、そして朝起きれず授業どころではなかったらしい‥。

そのことを知った時は目が点になったのだけども、ラマダンというものを身近に体験した感じがした。

 その後何日かしてラマダンも無事終わって、彼らの生活リズムももどり、アトリエで制作する人も増えてきた。

色々とアバウトな人たちが大学構内をうろうろしてたり、あちこちで笑ったり話したりしているという状況はなんだか新鮮で、いつもの”お堅いドイツ人大多数の大学の雰囲気”とはまったく違う空気がそこかしこにあった。「芸術とはなんぞや!??」と頭の中で考えまくるドイツの美術大学の窓がぱあっと開いて、生き生きとした風が吹き抜けていくような感覚もあって、それはなんだかとてもよいものだった。

几帳面できっちりしていてパーフェクトなアンドレアスが、こんなにもアフリカに惹かれる理由がなんとなくわかるような気もした。


歓迎パーティーみたいなのもあって、まさにアフリカンなパーティーだったのだけど、そこでスーダンの女性が歌を歌ってくれたのだけどもそれが日本の演歌とそっくりで、私はびっくりした記憶がある。こぶしの入れ方(?)とか本当に演歌そのものだった。スーダン人のスカーフをかぶった女性が演歌を熱唱している図は私にはすごく不思議なものだった。

 

まあ色々は総合的には無事に過ぎて交換留学期間が終わり彼らは帰国することになったのだけども、最後にハプニングがあったらしく、それはなんと大学を出発して皆で空港に向かう最中に、学生数人がいなくなるという大ハプニングなのだった。忽然と数人がいなくなったみたいで、どういう状況でいなくなったのかとか大学として色々の国際的責任問題とかは大丈夫なのかとかは全く私はわからないのだけれども、え、そんなことが可能なん?と話をきいたときまずびっくりした。

彼らのその後の足取りをアンドレアスは知ることができたようで、その後ノルウェーに渡って生活しているらしいという話を後々聞いた。これがいわゆる亡命というやつだな。


滞在中は、フレンドリーでノリのいいスーダンの人たちとは打ち解けてお互い片言の英語で会話もできたのだけど、そしてすこしスーダンの話をきいたりもしたのだけども、この交換留学が終わってスーダンに帰るとすぐに軍隊に入らなければならなくて、それはいつ死ぬかわからないような過酷なところで軍隊にはいきたくないということを話していて、この人たちは一応美術大学生という名目だけれども、現実問題としては「これからをどう生き延びるか」を模索している人たちなのだなということをそのときは感じたのだけども、

後から考えると、きっと亡命することを目的にこの交換留学に参加したひともいたのだろうな。そしてアンドレアスもそのことは勘づいていたんじゃないだろうかともなんとなく思う。

そもそも何がほんとなのかとかも含めて色々は私は全くわからないことだらけの出来事なのだけど。とにもかくにも、今もみんなそれぞれの場所で絵を描けていたらいいなと思う。


こうして書きながら記憶をたどるとあんなこともこんなこともあったなといろいろ思い出すすし、個人的にもけっこう色んな出来ごとがあって、色々ふくめて私にものすごいインパクトをもたらした”異文化交流プロジェクト”だった。

そしてこの交流がきっかけで後にふたりのドイツ人の友達にスーダンとドイツのハーフの子どもが産まれたりもしたわけで、アンドレアスの”アフリカラブ”の賜物だな‥とかおもったりもする。子どもたちももう今は高校生くらいだな。


”顔の絵”にまつわる何かを書こうとおもって、なぜかこのアフリカンな日々のことを思い出して書いてみたのだけど、そして書き始めたのが2週間くらい前でけっこう時間がかかっているのにまったくまとまらないのでもう終わるけども、

この文章を書きながら色んなことを思い出していると、やっぱり私の中にうかんでくるのは、今まで出会った色んなひと達の”顔”なのだった。






写真を探してみたら何枚かみつかった。





























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